感性のカルキを抜く時【うるのん】
まず初めに 意味わからないタイトルかと思いますが キチンとオチはつける所存でありますので 最後までお読みください 暇だったらね。
10代という多感な時期を、僕は非常に恵まれた環境で過ごしている
そう気付いたのも本当に最近の事なんだけど。
時間が経ってから過去の行いを振り返ってみると往々にして恥ずかしい。
それはもう、とてつもなく。
みんなにも黒歴史とか、思い当たる節あるよね。今日はそういう話から始まるんだけど、
逆に考えてみるとそういう発想は幼くて未熟な自分しかできないものだったりする。
謎のイキり方とか、大人になったら恥ずかしくてできなくない?
だから大人になって出しゃばってたり、謎のイキりをしているのを見ると少年少女時代に抑圧されてたりだとか、もしくは成長のないまま大人になってしまった人なのかなと思ってしまう。
だから僕は10代である今しか感じる事の出来ない「何か」を大切にして、羞恥心に負ける事なく堂々とそれを文章や音楽、写真とかの形として残しているわけなんだけど。(それはあるいはキチンとした大人になる準備をしているのかもしれない。)
そもそも僕らが何かを「感じる」ということ。
例えば綺麗な景色を見て綺麗だと「感じる」ということはどういうことなんだろう?
そしてそれは本当の意味での「自分の感性」なんだろうか?
これはあくまで僕の考えなんだけど、
まず僕らは記憶もない幼少期の頃に「良い」と「悪い」とか「綺麗」とか「汚い」の区別を教えられる事が多いよね。
それはもちろん無意識のうちに植え付けられているから、潜在的な「感覚」として残っていく。
だから本当の意味での自分の感受性を見つけるための一歩として「私の感性の根底には無意識に植え付けられているものがある」という事に気付く事が大切なんだ。
みんな金魚って飼った事ある?
飼った事ない人にも説明すると、金魚を飼育するときは普通の水道水じゃなくてバケツに入れて外で一日放置した水しか使っちゃダメなんだけど、
それは水道水には次亜塩素酸Caっていう消毒剤が含まれてるからなの。
だからそれを一日放置する事で抜く。
これがいわゆる「カルキ抜き」っていう作業なんだ。
話を戻すね。
僕らの感性は無意識のうちに「教育」という消毒を施されてしまっている。
それはもちろん一般的に言う表社会での倫理観や最低限の礼儀とか、行動における品性とかを養う上では非常に重要なんだけど、
それらが意識というか知識というか、そういう段階のものとして身についてくると、ただ単に無意識のうち「消毒されてしまっている感性」だけが残る。
だから、感受性はどこかで一度カルキを抜く必要があるんだ。
しっかりと自分の意見を見つめ直して自分が考えてる事を疑ってみる。
様々な観点から物事を見てみる。
わかりやすいところでいうと戦隊モノとかね。
僕らはヒーローと悪役の戦いが存在すると、当然のようにヒーローを応援する。
みんなそうするし。
でも悪役側になってみると彼らには彼らなりの考えがあるし、ちゃんと目的を持って行動をしているんだ。
彼らは彼らの行動が「良いもの」と信じているし、だからこそ強敵である「ヒーロー」にも勇敢に立ち向かう。
ほら、「相手の立場になって考えてみよう!」
ってよく言うじゃない?
あれ本当にそれを教えている大人はできてんのかね?
って思ってみたりね。
ちょくちょく話が逸れたけど、結局は
感性のカルキを抜く時、「本当の自分」みたいなものに一歩近づけるんじゃないかな。
だから僕は成長(それはある意味自然にカルキが抜けていくということなのかもしれない)して20代30代になって、10代の思想とか作品を見返した時に
「やるじゃん10代の俺」
って思えるように今を生きています。
みんなはどう感じた?
じゃんもーん!
ごめんここまで読んでくれた人本当にありがとう。マジでありがとう。何言ってんだろうねこいつ、マジやばい、なんだ「本当の自分」て、めちゃめちゃイキってんだろ。
まあいいのか。
(じゃんもーん!)