胸の奥で誰かが泣いている【うるのん】

 

2018の春、僕は1ヶ月の間超短編小説を1日に一つ投稿していった。

するとフォロワーは面白いくらい減り(100人くらい減った)自分の文章の読みづらさや気持ち悪さを痛感した。

なんか散文詩みたいなさ、今あるじゃん、Twitterとかで。

友達とかのそういうやつ読む時になんかムズムズするやつとスッと入ってくるやつに別れる感じ、わかる?

俺の文はもしかしたら一定の人にはそのムズムズの部類に入ってしまうのかな、なんて思う。

まあムズムズしたらかんたマンのやつとか川口とかのやつを読んでくれ(笑)

 

 

本題に入る。

 

まずはこのツイートを見て。

 

https://twitter.com/momosuke_art/status/1085877739725369344?s=21

 

ね、なんか感じた?

この感情なんて説明したらいいんだろうね

(ちなみに僕の記事では「エモい」という感情表現は極力しないようにしています。あまりにも曖昧で解像度が低いから。でも…でこういう恋とか愛とかってさ、時には残酷なくらい曖昧なまま終わっちゃうよね。だからエモいって言っちゃうのがここでは正しい気がする。)

一端に恋愛の事を語ったりしてしまうのは恥ずかしいんだけど、多分今日はそんな話。

 

僕はわたらいももすけ や カツセマサヒコ、白い文こと旧少女ナイフ (敬称略)などこういう部類の詩や写真を撮ってメディアで人気を獲得している人達が大方嫌い。

めっちゃ、嫌い。

なんだけど、この投稿にはどこかあまりにも心を動かされてしまった。

究極に切ない瞬間って、個人的には告白の時と失恋の時だと思うんだけど、

告白する前はさ、仲良しでなんでも話せて二人で遊びに行ったりもして、ドキドキしてるのは自分だけかもなんて思っちゃったりして、(逆に挨拶とかを頑張ってできるようになってさ、段々話ができるようになってやっとの思いで取り付けたデートっていうのもいいよね)

 

そんでラインの返信とか中々来ない時は無駄な焦燥感とかにかられちゃって、通知が来るたびに携帯に飛びついて、それがまた公式ラインからのやつだったりするんだよね。あのガッカリ度はめったに味わえない。

 

そして、何回かデートしたりして告白を迎える。

 

好きです の四文字を伝えるのがとっても億劫。だってその四文字で二人の関係が変わっちゃうんだもんね。

 

良い方にも、悪い方にも。

 

告白が成功なんてした日にはもうルンルン、帰り道によくわかんないパンとか買っちゃうくらいテンション上がる。

 

帰ったらラインで改めて連絡して、そんでまたドキドキして。

 

「告白してくれてありがとう。照れちゃったけど本当はすっごい嬉しかった。これからよろしくね」

 

とか返信来てもうベッドの上で転げ回るわこんなん。

 

まあ、そしてなんやかんやあって(この付き合ってる期の話は書こうと思えば無限に書けるけど終わりが見えないのでやめる)二人は収束へと向かっていく。

 

いわゆる 破局

 

それは突然やってくる。

 

シャボン玉が弾けるみたいに、あまりにも唐突に。

 

甘くて心を支えてくれていた大切思い出達がみんな一斉に牙を剥く。

 

10代の僕らには容赦無く襲いかかってくる失恋という魔物に全く歯が立たない。

くじけて、悔やんで、寝込んで、考えて、またくじけて。

あるいはいくつになってもそうなのかもしれない。

 

告白も失恋も涙と一緒にあるわけなんだけど、同じ涙なのに全く種類が違う。

 

その違いはもちろん「感情」というエッセンスの違いによるものだと思う。

 

そしてそれとは別に、どこか胸の奥がギュッとなるようなすっごく形容しがたい感覚が僕らには付きまとってくる。(いわゆる「エモ」)

 

それはまるで僕らに生来備わっている独立器官のように働く。

 

告白も失恋もこの独立器官が働く(つまり胸の奥がギュッとなる)と、嬉しさや悲しさが何倍にも膨れ上がってしまう。

 

この形容しがたい独立器官の働きをわたらいももすけは上手く表現として昇華させている。

だから惹かれたのかなって、思う。

 

僕らはどうしても悲しみを乗り越えなければいけない場面がくるけど、大抵は時間が解決してくれる。

 

でも後から見た時にその「一瞬の切なさ」がどれだけ大事なものだったか、わかると思うんだ。

 

僕らが感情を表に出すとき、必ず胸の奥では 誰かが泣いている。

 

苦しい時、悲しい時、胸がギュッとなるのはきっとそういう事なんじゃないかな。

 

 

ここまで読んでくれてありがとう。

 

じゃんもん。

 

 

 

 

 

 

感性のカルキを抜く時【うるのん】

 

まず初めに 意味わからないタイトルかと思いますが キチンとオチはつける所存でありますので 最後までお読みください 暇だったらね。

 

10代という多感な時期を、僕は非常に恵まれた環境で過ごしている

そう気付いたのも本当に最近の事なんだけど。

時間が経ってから過去の行いを振り返ってみると往々にして恥ずかしい。

それはもう、とてつもなく。

みんなにも黒歴史とか、思い当たる節あるよね。今日はそういう話から始まるんだけど、

 

逆に考えてみるとそういう発想は幼くて未熟な自分しかできないものだったりする。

謎のイキり方とか、大人になったら恥ずかしくてできなくない?

だから大人になって出しゃばってたり、謎のイキりをしているのを見ると少年少女時代に抑圧されてたりだとか、もしくは成長のないまま大人になってしまった人なのかなと思ってしまう。

 

だから僕は10代である今しか感じる事の出来ない「何か」を大切にして、羞恥心に負ける事なく堂々とそれを文章や音楽、写真とかの形として残しているわけなんだけど。(それはあるいはキチンとした大人になる準備をしているのかもしれない。)

 

そもそも僕らが何かを「感じる」ということ。

例えば綺麗な景色を見て綺麗だと「感じる」ということはどういうことなんだろう?

そしてそれは本当の意味での「自分の感性」なんだろうか?

 

 

これはあくまで僕の考えなんだけど、

 

まず僕らは記憶もない幼少期の頃に「良い」と「悪い」とか「綺麗」とか「汚い」の区別を教えられる事が多いよね。

それはもちろん無意識のうちに植え付けられているから、潜在的な「感覚」として残っていく。

だから本当の意味での自分の感受性を見つけるための一歩として「私の感性の根底には無意識に植え付けられているものがある」という事に気付く事が大切なんだ。

 

 

みんな金魚って飼った事ある?

飼った事ない人にも説明すると、金魚を飼育するときは普通の水道水じゃなくてバケツに入れて外で一日放置した水しか使っちゃダメなんだけど、

それは水道水には次亜塩素酸Caっていう消毒剤が含まれてるからなの。

だからそれを一日放置する事で抜く。

これがいわゆる「カルキ抜き」っていう作業なんだ。

 

 

話を戻すね。

 

僕らの感性は無意識のうちに「教育」という消毒を施されてしまっている。

それはもちろん一般的に言う表社会での倫理観や最低限の礼儀とか、行動における品性とかを養う上では非常に重要なんだけど、

それらが意識というか知識というか、そういう段階のものとして身についてくると、ただ単に無意識のうち「消毒されてしまっている感性」だけが残る。

だから、感受性はどこかで一度カルキを抜く必要があるんだ。

しっかりと自分の意見を見つめ直して自分が考えてる事を疑ってみる。

様々な観点から物事を見てみる。

 

わかりやすいところでいうと戦隊モノとかね。

僕らはヒーローと悪役の戦いが存在すると、当然のようにヒーローを応援する。

みんなそうするし。

でも悪役側になってみると彼らには彼らなりの考えがあるし、ちゃんと目的を持って行動をしているんだ。

彼らは彼らの行動が「良いもの」と信じているし、だからこそ強敵である「ヒーロー」にも勇敢に立ち向かう。

ほら、「相手の立場になって考えてみよう!」

ってよく言うじゃない?

あれ本当にそれを教えている大人はできてんのかね?

って思ってみたりね。

 

ちょくちょく話が逸れたけど、結局は

感性のカルキを抜く時、「本当の自分」みたいなものに一歩近づけるんじゃないかな。

だから僕は成長(それはある意味自然にカルキが抜けていくということなのかもしれない)して20代30代になって、10代の思想とか作品を見返した時に

 

「やるじゃん10代の俺」

 

って思えるように今を生きています。

 

 

みんなはどう感じた?

 

 

じゃんもーん!

 

 

 

ごめんここまで読んでくれた人本当にありがとう。マジでありがとう。何言ってんだろうねこいつ、マジやばい、なんだ「本当の自分」て、めちゃめちゃイキってんだろ。

 

まあいいのか。

 

(じゃんもーん!)

 

 

絵に書いたような 【かんたまん】


detune. / さとりのしょ PV

11月から我が家に住み着いているインコは、とにかく自由に生きている。
鳴きたい時に鳴き、食べたい時にナッツを食らい、眠たい時には寝る。イビキだってするし、嘘だってつく。自分より遥かに大きいヒトにだって噛みつくし、神棚にだって顔を突っ込む。

 

生活をしているのだ、彼は。まだ性別はよく分からない。声真似をしないので多分メス。

 

生活は生存とは違うんだって気づいたのは大学に入ってすぐだった。日本の街中から死の恐怖が消えて、もうすぐ一世紀が経つ。相変わらず自動車事故は恐ろしいし、戦争やイジメは無くならないし、都市には人殺しだっているけど、僕は死を感じることはほとんどない。

でも、それだけじゃ満足出来ない。満足出来ないように設計されてしまったのだ。誰によって?消費社会によって!

「ドイツ人と同じ割合で、インド人もまた自動車を持つとするならば.......世界にそれだけの資源はあるだろうか?」どこかの国の大統領の叫びは、月に行きたい社長の耳には届くはずもない。

ぼくらはトポロジーの彼方ではインコと同じ。生存ではなく、生活を求めているだけだ。それでも生活は消費を産み、消費は資源と引き換えに資本を生み、やがて月の裏側にも電柱を張り巡らしてしまうのだろう。資本主義は冷戦に勝利したが、歴史は未だ答えを知らない。

 

好きな歌詞がある。

「絵に描いたような 街はやがて 月にもできるんだ 星が消えない でも生きているんだ」-新約さとりのしょ

 

月に住み着く僕らの子孫は、息継ぎができる酸素のゆとりを持つだろうか?全てはミネルバのフクロウ、籠の中の小鳥に過ぎない。

 

うまく考えがまとまらなかったな。また今度書きます。じゃんもーん

発作の起こし方独特すぎだろ【うるのん】

 

 

カントリーロード
この道ずっとゆけば
あの街につづいてる 気がする
カントリーロード
ひとりぼっち おそれずに
生きようと 夢みてた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこ
カントリーロード
この道ずっとゆけば
あの街につづいてる 気がする
カントリーロード
歩き疲れ たたずむと
浮かんで来る ふるさとのまち
丘を巻く坂の道
そんな僕を叱っている
カントリーロード
この道ずっとゆけば
あの街につづいてる 気がする
どんなくじけそうなときだって
けして涙はみせないで
心なしか歩調がはやくなっていく
思い出消すため
カントリーロード この道
ふるさとへつづいても
僕は 行かないさ 行けない
カントリーロード
カントリーロード
明日は いつもの僕さ
帰りたい 帰れない
さよなら
カントリーロード

 

______________________________________

 

こんばんは、現代人です。

ふと思いついたんだけど、

午後6時前の青と赤が綺麗に混ざった紫の空とか

朝方ゴミ溜めの前で潰れてる奴とかJRSKISKIのCMを見た時とか君達はなんて言う?

せーの、

 

「エモ〜〜い!!!!」

 

だよね、今言った奴全員殴ります。

もちろん僕は「エモい」と言う言葉自体は否定しない。

高校生の頃、帰り道にみんなで空を見上げて「エモくね?」「エモすぎる」と口々に言っていたのを思い出すとあまりにも情緒的で涙が出てくる。

 

しかし、言葉を使って正確に感情を描写しなければいけない時に「エモい」は極度に曖昧で不明瞭なのだ。

 

もちろん僕らは空の色を正確に描写することはできない。

目が不自由な方にあの透き通った空の色をどうやって伝えればいいのだろう?(実はこれは僕の人生的命題でもある)

 

そういう時、広義で曖昧な共通項的感覚として「エモい」と言う言葉は非常に有効的なのだ。

 

そして冒頭に「カントリーロード」の詩を載せたのはこの詩を「エモい」の一言で終わらせたくなかったからである。

 

この歌は英詩を日本語に翻訳したもので、元々の歌の意味とはかなり変わっている。

英語では「故郷の街に帰りたい」という歌だが日本語では「帰りたくても帰れない」という歌になっている。

これはこの歌が日本で発表された1995年当時の風潮を表しているのだ。

 

田舎から一念発起して都会に出る青年。

列車を待つ彼の周りには家族や村の人々が日の丸の旗を持って彼の門出を見送ろうとしている。

そんな人々の期待を背負って彼は列車に乗り込むのだ。

期待と不安を胸に抱き、車窓を流れる風景をじっと見つめる青年。

駅に着くとそこには見たこともないような人の群れ、自分の生活していた世界との違いに驚きを隠せない。

それから何年かが立ち都会の生活にも慣れてきた頃、彼は何者でもない事に気がつく。

このまま都会での生活を続けていても先が見えない。が、村の期待を背負って出てきている以上村に帰ることは出来ない。

こうして彼は都会の町外れのアパートの隅でうずくまりながら歳をとっていくのだ。

 

この歌は実はそういう歌なのである。

 

しかし、今日はこんな話がしたいわけではない。

百人一首で歌われている恋心が今と変わらないように、この歌詞は逐一僕ら若者の心に刺さるのだ。

 

ひとりぼっち おそれずに生きようと 夢みてた
さみしさ 押し込めて強い自分を 守っていこ

 

まさに神経をすり減らして毎日を生きている僕達に送られている歌だろう。尖りきって周りの意見に噛み付いて、斜に構えて心の中では怯えている。そんな事に気付きたくなくてもどこかで気づいてしまっている僕らの歌なのだ。

 

歩き疲れ たたずむと浮かんで来る ふるさとのまち
丘を巻く坂の道そんな僕を叱っている

 

これを比喩的に捉えると、

毎日頑張っているとたまには甘えたい時もある。もちろんある。僕なんか毎日甘えたくて仕方がない。

人生に甘えきっている事が分かっていてもまだ甘えたい。そんな気持ちを抑えつつしゃんと前を向いて歩かなければならない。そうだろ?

 

どんなくじけそうなときだってけして涙はみせないで
心なしか歩調がはやくなっていく思い出消すため

 

過去にすがったり友達と飲みに行ったりするよりも、スキルアップの為にインターンにいったり社会の波にいち早く揉まれて起業や厳しい道を志している人もいると思う。

1995年というまだiPhoneどころか携帯電話もない時代から、今のハイテクノロジーが蔓延し若者の起業が推奨もしくはブームとなる時代まで、その時代の先端を行こうとするものの気持ちは変わらないのである。

 

僕らは現代人である前に人間なのだ。

「現代病」だのなんだの大人は言ってるけど、僕らには大人の事は全くわからない。でも大人にも僕らの事なんてわからないはずだ。

 

だから僕らは大人がいないところで、僕らしかわからない言葉で話そう。

 

現代病、万歳だよ。

 

じゃんも〜ん!

 

 

 

お疲れ様です。ここまで読んでくれてありがとう。現代病の発作として一番笑ったのが 

「ねえ、ドライヤーってどうやってかけんの」

と友人(かんたマン)が言ってきた時でした。

いや、発作の起こし方独特すぎだろ。

 

(じゃんもん!)

 

 

 

 

じゃんもん! 【かんたまん】

 

 【1】横浜と 砂漠は同じ 雑踏は みんな違って みんなこわいの

 

   【2】感情と 生産性を 陸に捨て もぐるぼくらを ゆるしてねたこ

 

   【3】午後5時の 改札前の 息は苦い 「アストロビスタ」「さようなら、またね」

 

   【4】ニヒリズム SNSで 拵えて 知らない街の トキメキの夜

 

   【5】へらへらと笑う誰かがぼくを見るへらへらへらへらへらぼくだった

 

 カメラを止めるな、金曜ロードショーでやるのはいいけど、いつCM挟むの?じゃんもーん、

東京のオリオン【都会を走る猫】

この街の夜が好きだって

どこか必ず明かりが点いていて

一人じゃない気がするって

一人にされてない気がするって

君はそんなこと言っていた

どこにいたって君にはぼくがいるよって

一つの光になるよって、なってみせるよって

そんな照れ臭い台詞は言えなくて

タバコの煙が夜の海を泳いでいく

君はまだこの街のどこかにいるのかな

ぼくはこの街の夜が嫌いだ

あまりにも明るくて

君を見失ってしまいそうだから

 

そんなこの街に今年も雪が降るらしい

TVがなんだか言っている

昔はあんなに嬉しかったのにな

カーテンを少し開けて窓の水滴を拭う

たまには外に出てみるか

君のいなくなった街を歩く

淡々と流れる人の波

煌煌と溢れる光の街

たまには悪くないかな

二つの一等星と五つの二等星

輝き繋ぐあの日のこと

 

もう少し歩いてみようか

 

 

 

 

はい、たまには真面目に書いてみました。テスト期間って本当精神すり減らして死んじまいそうです。それじゃ、じゃんもーん。

 

頼む、読んでくれマジで【うるのん】

 

 

 


歩く花 / nee

 

好きでしかない、本当に好きでしかない。

語彙力がいらなくなるくらいの圧倒的な音楽。

僕はこういうのが本当に好きで、この「nee」というバンドが爆発ヒットする前に知ることが出来てマジで嬉しい。爆発ヒットしてくれ本当に。

 

あまりの良さに語彙力を失ってしまったが、ちゃんと話をしたい。

 

最近友達から「ハルカミライ」を勧められて聴いていたんだけど、歌詞は熱いし曲は無骨でかっこいいしもう言う事無かったんだ。ずっと渾身のストレート打ってるみたいな音楽、いい。

 

でも本当の本当に好きなのは、部屋の隅でうずくまりながら考えて、曲書いて、早く見つけてくれよっていう感じを前面に出してる音楽。

 

僕はバンドをやっていたんだけど、精神がうまくいかず辞めてしまった。小さい頃から音楽が好きでロックやらジャズやらクラシックやらなんだって聞く。でもそこに音楽があればとりあえず食べてみるし、またそれがうまかった時の喜びは計り知れない。

 

これはまさにそれ。

 

まずバッキングのギター、大好き。ガッツリ曲の雰囲気決めてちゃんと鳴っててアンサンブルにしっかり溶けてるバッキングよりいいもんはない。

 

んでカッティングのリフ、最高。このリフで飯が三杯食える。本当の本当に好き。この気持ちに語彙がいらなくなるくらいに好き。

 

そしてベースよ…ベース、ボブの女が弾いてるベースがいっちゃんいい、これは世の真理。もちろん見た目だけじゃなくてローからハイまでバッチリ使って曲を支えつつもしっかり主張、最高。

 

ドラム、いやめちゃめちゃいい。パワーがある音してんのにタイト。録音だからそうなのかもしれないけど、それにしてもこのグルーヴ感。たまらん。

 

耳につく歌声、ダブリング的加工が今までのロックとの境界線を引いているのは言うまでもない。

 

曲の構成の話とかはアレな感じだからアレだけど、マジですごい。これは考えつかん。

 

 

早く爆発ヒットして欲しい。心の底から応援しています。

 

じゃんもーん!